自他の境界とは〜自閉性を関連づけて〜

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 自他の境界とは、自分と他人のライン引き、区別ということです。他人は自分とは、考えることも感じることも違う存在であるとの理解です。ひとには他人には触れられたくない部分と、触れられてもいいと思う部分があります。いちばん分かりやすいのが、プライベートなことと、そうでないこと(パブリック(公的)な部分)でしょうか。ほかにも、気にしていることや、忘れたいと思っていること、言われると腹が立つこと、悲しくなることいろいろあります。もし、そういったことに他者が触れた場合、相手は侵入されたと感じます。土足で踏み込まれたという表現の状態です。

 とはいえ、その境目は心理的なものですから正確に分かるものではありません。一人ひとり異なります。性格や文化差もあるはずです。でもある程度の共通性があるものでもあります。つまり、ある程度の境界が存在していると認識しており、他者もまた自分と似たような認識をしているとの推測のもとに他者との関係を作っていきます。

 心理的な境界があることは、はじめから分かるわけではありません。養育者(主に母親)との一体化した状態から、社会的関係を通して学習をし発達していくものです。たとえば、自分の物、自分以外のひとの物と、物の所有があることを知ることは自他の分化といえます。また、自我の発達とともに自分の要求を相手が認めてくれないことや、他者とのトラブルなどを経験して、相手には相手の意志や感情があることを次第に学習します(社会性の発達については、別の機会に書くつもりです)。発達についてここで述べたのはなぜかというと、いわゆる"おとな"と呼ばれるひとを、他者は発達しつつあるひと、発達に何かを抱えているひととは見なさないからです。たとえば、誰かが(そのひとにとって)腹の立つことを言われたとして、相手が子どもなら「子どもの言ったことだから」と許されることでも、おとなでは「何であなたにそんなことを言われないといけんのや」と怒りの感情を向けられることになります(子どもに対しても同じように怒りを露わにする"おとな"もたくさんいますが…それこそ自他の区別がないと言えると思います)。成人の自閉症の方についての話題は少ないですし、研究は遅れていますが、周囲の人間の発達観と呼べばいいのでしょうか、自閉性のある方の苦悩は、その誤認識が生んでいる部分が大きいのではないかと思います。

 さきほど述べたように、相手にとっての心理的な境界は目に見えません。では、どうやって知るのかというと、手探りで知るしかありません。たとえば、自分の発言のあとの相手の表情や言葉や、相手の自分への会話内容への配慮(自分の境界を基準にして相手の境界を考えるのが通常ですから、相手の言動から相手がどのように自分の境界をとらえているかを考え、それを相手が境界なんだなと推量するということです)、触れていい部分か分からない内容を言うときには、発言の前後にひとこと「余計なことだったらゴメン」とか「答えたくないときは、答えなくてもいいですよ」などの相手を気遣ったり、相手が侵入されたと感じた言動をしてしまった場合は、その非を認め謝ったり、ごまかしたり、他の話題でおだてたり、何らかの修正をしつつ、その相手にとっての境界を把握していきます。簡単に言うと、言語・非言語的コミュニケーションのなかから読み取ります。境界は、相手との関係性によって変化しますし、そのひとの気分でもおそらくある程度変わります。

 身体的な境界もまた同じです。ボディイメージと言ったらいいのでしょうか。体と体の距離、身振り、視線、身体的に触れている時間や部位などにもやはり心理的な境界があります。

 自閉症の障害については、想像力の障害、コミュニケーションの障害、社会性の障害と3つ組の障害と言われ、このHPでも紹介・説明していますが、例えるなら一つの物を3つの方向から見ているだけで、実際は一つの物と考えるのが適切ではないでしょうか。つまり、それぞれは密接に関連し合っていて分けて考えられるものではないということです。このような自閉性という困難さを抱える方は、上記のようなコミュニケーションにおける、その直接の言葉の意味以外の要素を直感的に把握することが難しいのです。その結果、自他の心理的境界の認識発達は遅れ、他者の心理的境界をしばしば越えてしまったりすることが考えられます。高機能自閉症の方の著作を読むと、それを論理的に理解しようと努力され、分かるようになったことも多いが、その論理は全てのひとに適用できるわけではないのでまた崩れることも多く、またある程度分かるようになった状態においてもなお理解できないことも多いという姿が浮かびます。独特な会話スタイルに見えるのは、その方が経験から学んだ論理的なルールにのっとった姿とも言えるかもしれません。

 具体的に、いくつか例を考えてみます。たとえば、イヤだと思うことをズケズケと言ってくると相手が感じる状況があるとします。それは本人にしてみれば見たままを言っているだけで、悪気はないのかもしれませんが、言った本人は気付いていないが、実は相手はイヤな思いをしていることがあります。そこで、「今のは傷つきました」と言葉で言うひとなら、しまったと思い修復することができます。でも、分かるでしょと相手が思い、出している小さなサイン、たとえば一瞬の表情の変化やその後の声のトーンのちょっとした違いなどを読みとれないひとはどうでしょうか。このひとは相手の気持ちが分からない人だと思われてしまいます。おとな同士の場合、相手はイヤだというサインを何一つ出さずに我慢するかもしれません。もし相手を不快にさせたと気付けたなら申し訳なく思うし、謝罪もできるのに、相手は、このひとは自分を傷付けて平気なひとなんだなとか、バカにしていると心の中で思うかもしれません。誤解が生まれています。

 相手が話しているときに、表情を変えず視線を合わせないという状況があるとします。視線を合わさないというのは、非礼なひとだと思われます。だからといって、逆にずっと見続けるというのは、侵入されたような気にさせます。表情を変えないひとは、自分の話に関心を示していないと感じさせ、やはり失礼なひとだとか面白くないと思われたりします。コミュニケーションにおける非言語の重要性の度合い(非言語的コミュニケーション能力の発達の違い)が違うから生じる誤解であったりすれ違いです。

 場の雰囲気を読んだ言動をすることが難しいというひとがいるとします。自分の言動の結果、場の雰囲気が気まずくなっていることは分かるが、何がその原因かが分からないとすれば、そのひとは身動きできなくなります。自分の言動はいつ他人を不快にさせるか、人間関係を壊すか分からないという不安が絶えずつきまといながら他者との関係のなかで生きることは大きな心の負担になるのは想像に難くないことです。それを周囲の人間は理解してくれないと思うひとは、孤立無援の状態にあります。苦しいはずです。無理解からの相手の言葉によって傷つく体験をすることもあるかもしれません。そういったなかで、自分に対する評価は低くなっているひとの場合、さまざまな心の症状を引き起こす場合もあるということが考えられます。

 さっきから、誤解についてばかり書いて気を重くされた方もあるかもしれません。その誤解やすれ違いは、お互いの理解によって解消できるものだと思うので書きました。たとえば、相手は視線で伝えることがうまくできないのだという理解が無いから、視線で伝わってこない相手に対して腹が立ったり、睨んできているように感じたりするのです。もしかしたら、自閉性のあるひとなのかもしれません。もしかしたら、視力が低いひとなのかもしれません。非言語的コミュニケーションが得意でないひとには、直接的な表現の割合を多くして、もしくは分かり合うまで話せば、より伝え合うことができます。それは気を遣うとかそういうことではなく、感情や思考を他者と伝え合うというコミュニケーションの最大の目的のための、ふつうの作業だと思います。

 そして、最後に、書いておかなければならないのは、この他者との関係性の問題は、何も自閉性のある方に限った問題ではないということです。表面的なやりとりで取り繕って、本音を言うことを恐れたり、他者のちょっとした言葉で傷ついたり、ブチ切れたり、少しでも自分と違うひとを排除したり、ストレス解消のターゲットにしたり、共依存の関係に溺れたりするのは、自他の境界があいまいで、心理的境界を見定めるコミュニケーション手段や心理状態を持っていないという見方ができます。ただし、他の障害、障害ではないが社会性の問題、それぞれ重なり合うものの、同じでもありません(これも別の機会に書けたら…と思います)。