はじめに読んでね!

わかりにくい障害

 この障害は解明されていないあやふやな部分がたくさんあり、誤った解釈がもしかしたらされている可能性もあるかもしれません。例えば、この障害の割合が書かれているものも、少し前と現在では随分変わっています。そして現在も研究者によって見解が異なっています。それどころか概念すら曖昧な状態にあります。今は次第に明らかになっていく過程にあります。

このページを作ろうと思った理由
 
理由は、いくつかありますが、一つは、これまで「ちょっと変わった人」と言われてた人の中に高機能広汎性発達書害である人がいることに、今は学校教育の中でようやく認知されつつあるところですが、近いうちに一般的に知れ渡るときがくるんじゃないかと思うからです。脳の障害は身体的な障害に比べて理解されにくく偏見をもたれがちな上に、中途半端な知識をもった人たちが、身近にいる高機能広汎性発達障害である人に偏見を持って”告知”する形になってしまったとき、その人の創り上げてきた人生を崩してしまうことは悲しいと思うからです。

気になったときは言ってくださいね!

 僕自身もまだまだ勉強中です。それに専門家ではありません(将来的にはそう言えるようになりたいんですが…)。できるだけ正しい知識と責任を持って書こうと思っています。でも誤解を招くような言葉の足りない内容を書かないとは限りません。自分でもいろいろ考えたり知識をもったり実際に経験するに従って気になる部分が出てくれば修正をしていこうと思っていますが、もし気になった点や誤ってるのではないかという点がありましたら気軽に指摘してくださると助かります。 指摘されて初めてわかることもあります。僕やここに訪れてくれたみなさん同士との会話の中で生まれてくるものや気付くことはたくさんあると思います。それと僕は○○○障害と呼ぶのがどうも好きではありません。ですから、障害のある人という言い方をしてるのですが、代わりになるようないい表現ありませんかねぇ?

大切な側面で障害ではなくなるかもしれない

 正しい知識は思考の前提となるものですから大切です。誤った知識は誤解や偏見を招く原因になります。ですが、それ以上に大切なことは、その(障害のある)人がどのような生きにくさを抱えてしまう状態にあるのか、どうすればいいのか、何ができるのか、そういったことであり、その思いが理解やよりしあわせな人間関係に繋がるのだと思います。特に高機能広汎性発達障害は、たとえ脳の一部の機能に障害があったとしても、本人が理解しやすい方法を知り、学習する機会と他者や社会の協力があるならば補うことができ、少し通常とは異なる方略であっても障害すべてがなくなるわけではなくとも、一番大切である身近な人とのかかわりの中では障害ではなくなる可能性があると考えています。例えば、聴覚に障害があっても口話法や手話や文字によって、すべての代替はできなくとも、コミュニケーションをとるという点では耳が聞こえないことは障害ではなくなります(障害の2つの意味が混じっていますが)。でもそのためには、わかりやすいように口をはっきり動かしたり、手話を覚えたり、社会的には音声だけでなく文字で同時に表すという相手側の協力が必要になるのと似ているかもしれません。

コミュニケーションの障害=二次障害
 コミュニケーションは相互の相手を理解しよう(したい)という気持ちがなくては一方的なものになってしまい、それでは会話が情報の出入力でしかなくなってしまいます。つまり相互の意識しない力(分かり合いたいと思う力、補い合う力…)がそこには存在しているはずです。高機能自閉症の人にとって問題なのは、障害そのものによるもの(一次障害)ではなく、対人関係、特にコミュニケーションに難が現れるための二次的な障害です。相手の言葉本来の意味以外の微妙な言葉の抑揚によるニュアンスや表情・態度から微妙な感情の動きや思いを推量することが難しい、同じように自分の感情を言語化することが難しい、周囲の変化が情報の氾濫をおこし即座に対応できないなどの状態は、相手に不快感をあたえたり、傷つけたり(相手は自然な期待をしている場合、それが実現しないと不快な感情をたとえワザとではなくとも"こうむった"と感じたり傷ついたりするかもしれない)、また本人も自分が普通におこなったはずの言動が思いもよらぬイヤな結果に終わる(不快またはいじめなど(実際、8割の人が小学生時代にいじめの被害にあっているという報告がある))生活を繰り返した場合、生きにくさ[不全感や無力感や不当な罪悪感…]を感じることになるかもしれません。

幸せを感じる権利を等しく持っている
 人は平等だと僕は思いませんが、一人ひとりが本人にとってみれば、それぞれのドラマのただ一人の主人公であり、それぞれが幸せを感じる権利を等しくもっていて、主人公が許した者以外の誰もその権利を奪うことはできないと思います。もちろん障害があることは何の理由になりません。もしかすると特別な配慮や努力にたくさんのエネルギーが必要となるかもしれません。でもそれは嫌なことでしょうか。ある人が生きていくなかで喜びと幸せを見出すこと、そこに自分が在ること、互いにとってかけがえのないものになれること、そこにはきっと喜びが生まれるはずです。たまたま障害がない(ないと思っているだけかもしれない)からと、一方的に"支えてあげる"のではありません。同じ時間の中を、呼吸をして、いろいろなことを感じ、実は感情レベルで"支え合いながら"生きている姿がそこにはあるはずです。イメージするようなギブ&テイクとはちょっと違うとしても…。

どーんといきましょう!

 人はいろいろな事柄をいろいろなものを媒体として知識を獲得し、経験によって学習しながら思考や行動のベースを作っていきます。知ることなしに考えることは不可能です。だからまずは少しでも知ることが大切だと思います。あまり専門的なことは書かないつもりです。書くとしてもそこから派生するリンクの形にしてあとから付け足すようにすると思います。なぜならさっきも書いたように高機能広汎性発達障害がいちばん障害となるのは人と人との関わりに起因する二次的社会的障害だからです。簡単に言ってしまえば、コミュニケーションがうまくいかないということです。でもこのことに関しては、例えばストレートな表現や省略しないことを心がけた会話をすることがまずはできることではないかと思います。そして、どういった困難があるのか理解し、それによって実際どんなことが起きるのかを知ることで、どうすればいいのか、何をすべきなのかが少しでも見えてきたらいいなと思っています。高機能広汎性発達障害であるひとたちが楽しく生きやすい社会は、すべての人にとって同じく楽しく生きやすい社会だと思います。

 コミュニケーションは誰にとってもやっかいなテーマです。でも少しぐらい間違っても人には補正というすばらしい能力があるのでダイジョーーブ!できるなら多くの人と考えていきたいなぁって思っています。ひとは自分の知ってることや感じることの基準をこえて考えることはできないから、いろいろ話せたらいいですね。どんなふうに自分が感じたり、考えたりしたかを自分自身の言葉で紡いで、それを聞きたいと思うひと、受け止めるひとがいるとき、何より伝わると思います。コミュニケーションの得手不得手は関係ないです。

*「〜かもしれない」というのは「可能性がある」という意味です。間違っている可能性もあります
*たぶん分かりづらい表現があるかと思います。文章の書き方の勉強します
*内容に関する質問や、もっと理解しやすい表現があれば教えてくださいねー
*最後まで読んでくれてありがとうございました (。・_・。)ノ